Earthquake-Resistant Homes
阪神淡路大震災の実体験から家づくりを学ぶ!
はじめまして!E-HOUSE(イーハウス)商品開発の前堂です。
当社に興味を持っていただいてありがとうございます。
簡単に私の自己紹介とE-HOUSEの説明をさせていただきます。
土地をどの様に利用すれば良いのか、お困りの方は多くおられます。
大手ハウスメーカーに相談しても、費用が高すぎてホントに大丈夫なのか。
何かとご心配はつきませんよね。
私は昭和44年に
神戸市で産まれました。
幼少の頃は、友達と山登りをしてカブト虫やクワガタをとりに行ったり、
知らない町まで探検したりと、とにかく家でおとなしくできない子ども!
思春期の頃は、ごんたくれで親にいっぱい迷惑をかけてしまいました。
現在は神戸市内に住んでおり、娘2人と妻の4人家族です。
子どもはいつの間にか成長して、長女が結婚して巣立っていきました。
次女は社会人でがんばっています。一人づつ家を離れていく近年は少し寂しくもありますが、
大人へと成長していくのを楽しみに見守っていきたいです。
私は、サラリーマン生活(大手ハウスメーカーの新商品開発)が23年間つづき、
休みには仲間たちと旅行ばかりしていました。
冬はスキー、春秋はテニス、夏は海水浴と活発な青春時代を過ごしていたのですが、
H7.1早朝(当時26才)に突然、つい昨日のことのように思いだされます
阪神淡路大震災の被災者となりました。
人生が一転しましたった一瞬のできごとです。
その実体験こそが大きな転機となり、E-HOUSE 商品開発の原点になっています。
最後までご一読いただきますと、大地震当時の実経験、今だから話せることを語らせて頂きます。
又、E-HOUSE では、戸建注文住宅の専門アドバイザーとしての役割を果たして行きたい考えています。たくさんの住宅会社がある中で、あなたは何を見て、たった一社を決められますか?
「いってきます」「ただいま」がくり返される家は、住む人にとって心のより所となる場所であってほしい。
それは、見た目のかっこよさ、性能の数値だけではかないません。
一人一人の暮らし方や生活スタイルはさまざま。そんな中で、「あなたらしい暮らし」とはどのようなものでしょうか?
さぁ、一緒に考えましょう。
あなたらしい暮らしのカタチ。
理想の暮らしがかなう住まいが、ここにあります。
阪神淡路大震災の被災が私の家づくりの背景
1995年1月17日(火曜日)朝5時46分 阪神淡路大震災発生
阪神・淡路大震災
約10万棟の家が全壊し、
6500人以上の尊い命が奪われ、
数えきれない家族の笑顔と幸せが一瞬にして消えました。
当時私は神戸市灘区の六甲道駅近くにあった実家でくらしており、
あの忘れようとしても忘れられない悪夢の揺れをまともに体験。
「神様助けて!!!」
と無意識に叫んだことを覚えています。
安全な場所へ移動したくても身体の自由が全くきかず、書物や置物が本棚と共に私の上に落ちて一瞬にして埋まり、テレビや冷蔵庫なども壁から壁へ飛んでいくのを目の当たりに。
揺れが少しおさまったところで外に出ようと、
真っ暗な中を家財や割れたガラスの上を這いつくばって玄関へ。
余震が続く中かろうじてドアノブに手が届くもドアが開かない。
ドアを何度も蹴りつけ、
やっとの思いで人が通れる隙間を確保し外へ。
外は真っ暗でとてつもない寒さ。
それでも余震が続き家に入ることはできないので、
静まり返っていたその場に立ちすくむしかなかったのですが、
夜明けとともに周辺が見え始めると愕然としました。
傾くマンション
崩壊した家々
あちこちで上がる黒煙
空爆にでもあったかのような惨状が目に飛び込んできました。
「夢であって欲しい・・・・・・」
そう願わざるを得ませんでした。
その後、四方八方から、
「誰か〜!助けて~!」
と叫び声が上がったことで母親がいないことに気付き、
声を掛けながら家の中へ。
見つけ出した母の上には整理タンスが倒れていたのですが、
コタツに入って寝ていたことが幸いし、
直撃を免れ無事。
着の身着のまま外に飛び出していたので、
服を探しましたが、
足の踏み場もなく見つけることができない。
何度も余震が続く中、
とにかく二次災害に巻き込まれないようにと外に出て、
広い道路にうずくまりながら体を温めるしかありませんでした。
当時はスマホなどなく、
簡単に情報を知ることができない時代。
公衆電話には長い行列ができていて、
親戚や友人知人に連絡を取るのも困難な状況。
父はすでに仕事に出た後で消息がわからず心配でしたが、
勤務先に向かう走行中に車が上下に飛び上がり、
目の前に阪神高速道が落ちてきたというものの、
これも奇跡的に無事を確認。
路上の寒さに耐えきれず、焚火をしようと燃やすものを探しに周辺を歩くと、
一階部分が完全につぶれた家が連なっていました。
そんな家の前で一人の女性が、
「旦那と子どもが一階に寝てたんです!助けてください!」
と助けを求めてきたので、
がれきの隙間をのぞこうとしましたが、
地中深くから、
「ゴーーーッ!」
と、この世の終わりと思わせる地鳴りが響き、
同時に大きな余震が繰り返し起こりました。
埋まっている人を助けるどころか、
近付くことすらできません。
周辺の多くの家屋が同じ状況で、
ただただ公的な救援を待つしかない。
「何もできずごめんなさい・・・・・・」
そう心の底でつぶやきながら、
その場を立ち去るしかありませんでした。
4階、5階部分が階ごと無くなっているマンション。
傾いたマンションの上階の窓から助けを求める人々。
それらを目にしても、
何もできることはなく無力な自分。
JRの線路の状況を確認しにいってみると、
川にかかる橋が落ちて無くなり、
通勤に利用していた六甲道駅は2階部分が地面に。
状況を知れば知るほど放心状態。
この様な状況の中でも両親の状態が心配だったので、
ドラム缶と木材やカーテン生地などを拾い集め、家の前に戻り焚火を始めました。
近所の人たちも一緒になって火を囲み、
とにかく暖を取って体を温める。
食事は皆で食べ物を持ち寄り、
ドラム缶の上に置いた網で焼いて食べる。
極寒の路上でも何とか飲食は確保しながら、
とにかく耐えるしかない状況。
時間は経てども状況は一向に好転せず、
寝られる場所も無かったので、
無事だった車で交代で仮眠。
ただ、ガソリンが無くエンジンがかけられず、
冷え切った車内は老人や赤ちゃんには過酷な環境でした。
地震から2日目に入ると、近くの小中学校で飲食物の支給が始まったので、
出向いて配給に並びました。
けれども数が少なく、
自分まで回ってこない。
訪れた母校の中学校には、
けが人や亡くなった方が運びこまれ、
泣き叫ぶ声や身内を探している人々など、
その時の情景が今でも心に焼き付いています。
極寒の中で3日目。
26歳で若かった私でも心身共に衰弱。
そんな時に毛布や衣類の支給品が手に入り、
救援物資を送ってくださった方々や、
運んでくださった方々を、
命の恩人と思わずにはいられませんでした。
その後4日、5日目となると、
この先どうして行こうかなどの話も出始め、
行動に移せる方からぽつぽつと焚火の輪から抜け、
神戸から出て行かれました。
焚火を囲んで苦境を共に過ごした人々が離れていく際には、
「頑張ってください」
と自然と声をかけ合っていました。
私も両親と一緒に暮らせる住宅を確保するために、大阪に向かったのは地震から7日目のこと。
大阪に着くと普通にお店も開いていたので、
私たちは買い物に入ったのですが、
みすぼらしい身なりで体も臭く、
とても負い目を感じていました。
一瞬にして人生が変わってしまった・・・・・・
そう実感しました。
幸いにも私たち家族に亡くなった人はいなかったのですが、
友人や知人は多くの方々がお亡くなりに。
あれから25年以上が経過しましたが、
決して癒える事はなく、
今でも昨日のことのように思い出されます。
耐震等級3の必須
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